虹の彼方へおじ散歩 ~ 赤羽編 (軍用列車の後を追いかけて) ~
日毎に暖かさが増してくる。
もう春がそこまで忍び寄っている。 ほどなくしたら桜便りも届き始めるだろう。
待ちに待った季節の到来だ。
この日も日光が燦燦と降り注いでいた。 絶好の散歩日和。
北区赤羽駅を起点に「おじ散歩」に出掛けよう。
JR赤羽駅
この日の目的地は『桐ヶ丘団地』。
ここは昭和の香りが残る大団地群。 赤羽駅より15分程度歩いた所にあり、日本における集合住宅の生き証人といっても過言ではない。
ここで歴史を感じる散歩を楽しみたい。
さあ桐ヶ丘団地を目指して進んでいこう。
赤羽駅西口を川口方面へ高架下沿いに歩んでいく。 しばらくすると線路は小高い丘に作られたトンネルの中に入っていく。
その丘の上には神社が荘厳な姿を見せている。 JRの線路の上という珍しい立地条件に建つ神社。 それは『赤羽八幡神社』。
ここは昨年の10月に参拝しているので今回は訪問しない。
ただ参考までにその時の姿をあげておきたい。
赤羽八幡神社
この神社は線路わきの階段を56段あがった高台にある。 約1200年の歴史を持つ由緒ある古社。
しかしながら歴史があるだけではない。
ここは通称「エイト神社」とも呼ばれアイドルグループ「関ジャニ∞」のファンの聖地としても知られているのだ。
先程JRの線路の上に立つ神社と述べたが、正しくは神社の下を新幹線が初めて通ったというべきだろう。
そして日本で唯一新幹線の上に鎮座する神社と言った方がわかりやすいかもしれない。
新幹線がまるで鳥居の中を通過するかのように見えるのでその瞬間を見逃さないでほしい。
色々な話題を持つ神社なので機会があれば参拝されたし・・・。
この赤羽神社を背にして西方向に進んでいくと遊歩道の入り口にたどり着く。
ここから細長く伸びているのは『赤羽緑道公園』である。
北区赤羽には戦時中数多くの軍の施設が建てられていた。 そして軍用施設から物資を運ぶため赤羽駅の貨物線に連結する列車の引き込み線が施設から赤羽駅まで張り巡らされていたそうだ。
その軍用列車の引き込み線の跡地を利用して作られた公園が『赤羽緑道公園』である。
赤羽緑道公園
公園が細長いのはそのためで、歩道には引き込み線の面影を残すためレールに見立てたタイル絵などのデザインがなされている。
緑道の脇には数多くの木々が植えられ、鳥たちの憩いの場となっている。
そこを進んでいくと赤羽保健所通りを渡る橋が見えてくる。
この橋にも列車にちなんだ車輪のデザインが施されている。
これらから赤羽緑道公園の生い立ちがわかるのだが、残念ながらこの公園の由来を示す説明がなされたものは一切ない。
出来れば作ってほしいものである。
公園でくつろぐのはこの緑道の主!?
公園の木々の下でくつろぐ猫達に出くわした。
カメラを向けても微動だにしない。 人に慣れているようだ。
「吾輩は猫である。名前はまだない。どこで生まれたかとんと見当はつかぬ。 しかしこの緑道が現在の我が家。日の当たるこの場所はその中でも吾輩が最もくつろげる一等地。 この緑道の一見さんと思しきお前さんが立ち寄るにはまだまだ早い!!」
・・・・とでもおっしゃりたいのだろうか?
赤羽緑道公園の主に敬意を表しここは静かに引き下がる事にする。
目的地の桐ヶ丘団地はすぐそこだ。
このままこの緑道を進めば『赤羽自然観察公園』に続いていくのだがこの日の目的地はあくまで桐ヶ丘団地。
赤羽緑道公園を途中で抜けだし車道を渡る。
桐ヶ丘団地に到着した。
桐ヶ丘団地
ここ桐ヶ丘団地は戦時中に陸軍の火薬庫として使用されていた跡地に作られたもの。
昭和29年頃から建設が始まったらしい。
もう66年が経つ。 私と同い年である。 昭和の香りが色濃く漂っている。
そう言えば令和の今でも私からは昭和の香りがするらしい。
加齢臭?・・ ではないと信じてはいるのだが・・・・・。
この段はするりと読み流しされたし。
ここは現在は寂れた古い団地群だが、出来た当時はモダンな建物でさぞかし賑わっていたことだろう。
栄枯盛衰、色々な出来事を吸収したその姿には愛おしささえ感じる。
いや、昭和という時代の懐かしさに浸っているのかもしれない・・・。
窓の外から部屋の状況をうかがうと、半数程度しか生活感がみえてこない。
半数は空き家だと推察される。
この団地群は既に何棟も建て替えが進んでおり、新しい棟では新たな生活が始まっている。
桐ヶ丘団地新棟
この棟も最近建て替えられたばかりである。
もうすぐ入居が始まるのだろう。
全てを建て替えるのでなく、出来れば昭和遺産として何棟か残して欲しいものだ。
もう少し団地を見てみよう。
桐ヶ丘団地中央棟商店街
もしこの写真を単独で見せられたら東京23区にある商店街だとは想像できないだろう。
地方の寂れた街のそれと思ったに違いない。
文具店を兼ねる駄菓子屋の前に乗り物があった。
「中止します」と書かれたこの年季の入った子供用の遊具には哀愁がただよう。
昭和の頃は子供たちが列をなし、この遊具は商店街一の人気者だったかもしれない。
今は完全に忘れられた存在。 少し寂しい。 でも撤去されればもっと寂しい。
この商店街の半数以上はシャッターが下り、今は営業していない模様。
アーケードにはいくつもの看板が掲げてあるが、はたしてこの中に看板の家主がまだ経営するお店はいくつあるのだろうか・・・。
しかしながら営業してるお店もまだまだあり、商店街には「万国旗」や「東京2020」の旗も飾られており、ここが健在である事を顕示している。
どっこい、生きている!! そんな感じに違いない。
そんな元気で営業しているお店の一つが『宮﨑商店』である。
台湾総菜を売るお店だ。
宮﨑商店
「台湾チマキ」や「肉まん」に「角煮」、それに各種弁当などが所狭しと並べられている。
そのどれもが格安で美味そうだった。
何人ものお客さんが次から次に訪れて台湾総菜を購入されている。
店頭のテーブルでもイートインが出来るようで、お年寄りが一人座られて注文の商品を待たれているようだった。
恐らくこの商店街の中でもここが最も輝いているお店ではないだろうか。
桐ヶ丘団地は昭和の香りが色濃く漂う懐かしい場所だった。
町全体は静かで寂しさを感じるが、その心臓部はまだまだ脈々と動いている。
生きているのだ。
この団地、全て建て替えるのでなく一部分は昭和遺産として残して欲しい。
特に中央商店街だけはその姿のまま生き残る事を切望する。
そんな事を考えながら桐ヶ丘団地を後にした。